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タイトルカント『啓蒙とは何か』を読む
記事No2837
投稿日: 2006/12/18(Mon) 12:33:11
投稿者takeo
カントさんが登場するというのもなんだかですが(笑

takeoの自慢の特技は
「問題状況にピッタリの情報をピッタリのタイミングで入手する」
ということ、特に〈本」ですね。

本屋さんに行って、何気なく本を手に取り、ぱらぱらとめくると、今まさに必要な
情報が飛び込んでくる(笑
これはけして偶然ではありませんで、いつの間にか身についた特技、そのうち
この特技の修得法も書いてみたいと思っています。

さて標題の本:
カント『永遠の平和のために/啓蒙とはないか』中山元訳 2006年
光文社古典新訳文庫 680円。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334751083/ref=pd_ys_pym ..... 51-3993046
これで頭が良くなるんですから、買わない手は無いと思います。
 
この度、光文社(ご承知のとおり、これまではKAPPAブックスNONBOOKS
などを得意としていました)が創刊した『古典新訳文庫』のスタートを飾る一冊
として発刊されました。
「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」という惹句が付いています。
「もう一度古典を」だけではなく「あらためて古典を」もOKでしょう。

裏表紙には:
自分の頭で考える。カントが『啓蒙とは何か』で繰り返し説くのは、その困難と
重要性である。・・・・いまこそ読まれるべき論文集。
と書かれています。
〈自力思考〉を提唱する当サイト及びその読者としては興味津々のキャッチです。
帯には「難解な哲学用語を使わずに、初めて翻訳されたカントの論文集」とあります。
つまり、あなたにも私にも読みやすい。

巻頭の論文が、『啓蒙とは何か―「啓蒙とは何か」と言う問に答える―』。
その他4つの論文と長大な解説。

さて、ここで取りあげるのは、標題のとおり、『啓蒙とは何か』。
取りあげる
趣旨は、これから当コーナーで取り組む「自力思考」のイントロとして。
この際、「自力思考」の錬成にホンキで取り組もうと考える人には購入をお奨め。
イントロからホンキを出していただきたい(笑
予は後ほどこの本に収録されている論文を利用して「自力思考」力を高める錬成法を
提案しますので。

そうまでしたくない人は、書店に行ってパラパラと読んでみましょう。
「いま、息をしている言葉」で訳されている20ページですから、ラクショーで読めます。
面白そうだったら、それから買ってもいいし、スレッドが伸びてからでもOKですし。

ではレスを変えてスタートしましょう。

タイトル◇「啓蒙」の定義 
記事No2838
投稿日: 2006/12/18(Mon) 13:23:16
投稿者takeo
カントさんがこんなに分かりやすくていいのかしら(笑

カントさんが生きて活躍された時代は「啓蒙」ということが大変重要な課題でした。
多くの人が「啓蒙」を論じ、実践の道を説いていたらしい。
カントさんが〈自分が息をしている時代の課題〉としての啓蒙について論じた
のがこの論文です。
(この〈自分が息をしている時代の課題〉についての思考の成果である、という
ことは覚えておいて下さい。)

啓蒙とは何か、カントさん曰く。
(以下引用)
◇啓蒙の定義
 啓蒙とは何か。それは人間が、自ら招いた未成年の状態から抜け出ることだ。
未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ない
ということである。
人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、
自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間は自らの責任において、
未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものが
あるとすれば、それは「知る勇気を持て」、すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」
ということだ。
(引用終わり)

如何ですか。専門用語が使われず、構文も単純で分かりやすいですよね。
(これはカントさんの原著ではなくて、光文社の企画及び訳者・中山元さんの
工夫のたまものです。ご両人に拍手。)
人に何ごとかを提唱・提案する言葉はこうでなくっちゃ。

カントさんのいう「理性」とは何か?
前後のつながり具合からみて、これは「考える力」といった意味で用いられて
いることが分かります。
文中、「理性」という言葉が使われているところに「考える力」を代入してみましょう。

○未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の〈理性〉を使うことが出来ない・・・
●未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の〈考える力〉を使うことが出来ない・・・

○人が未成年の状態にあるのは、〈理性〉がないからではなく、他人の指示を仰がないと、
自分の〈理性〉を使う決意も勇気ももてないから・・
●人が未成年の状態にあるのは、〈考える力〉がないからではなく、他人の指示を仰がないと
自分の〈考える力〉を使う決意も勇気ももてないから・・

○「自分の〈理性〉を使う勇気をもて」
●「自分の〈考える力」を使う勇気をもて」
よろしいですね。
最後の場合。「自分の理性を使う勇気をもて」とは「他人に指示を仰ぐことなく、
自分の〈考える力〉を使う勇気をもて」ということです。

さて、「他人に指示を仰ぐ」というとき、「指示」とは何か?
これには他人が直接及び間接に下す指示に限らず、これまでの人生において
知らず知らずのうちにわれわれの頭の中に根を張っている「過去の指示」もある
のではないでしょうか。

未成年のまま、すなわち、自分の「考える力」で考え・検討しないまま採用し、
現在も使用している「世間の常識」などもその一部でしょう。
つまり、「未成年の状態」とは「自分の力で考えることなく採用したものの見方・
考え方」を使って考えている、という状態のことです。

カントさんは「知る勇気をもて」とおっしゃっています。
知る勇気とは
何を知る勇気でしょうか?
ここでは明示されていませんが、私は「自分が未成年であることを自覚する勇気」
だと思います。
このことを自覚することから、「自分の〈考える力〉を自分で使う勇気」を持つ
ことがスタートします。

では何故、〈啓蒙:自分の力で考える〉ことが必要なのでしょうか?

「自分の力で考えよ」というカントさんの提案を採用するかどうか、決めるにあたっては、「カントさんって大哲学者だよね」「みんな尊敬しているらしい」といった「他人の指示」によることなく、自分の力で吟味して決定しなければならない。

では検討してみましょう。
「なぜ〈他人の指示〉によってではなく、〈自分の力〉で考えなければならないのか?

タイトル問題点
記事No2841
投稿日: 2006/12/21(Thu) 14:17:56
投稿者takeo
> 「なぜ〈他人の指示〉によってではなく、〈自分の力〉で考えなければならないのか?

他にもいろいろありまして。

? 何を自分の力で考えなければならないのか?

? 自分の力で考えるとはどういうことをすればよいのか?

特に、
>さて、「他人に指示を仰ぐ」というとき、「指示」とは何か?これには他人が
直接及び間接に下す指示に限らず、これまでの人生において知らず知らずの
うちにわれわれの頭の中に根を張っている「過去の指示」もあるのではない
でしょうか、ということまで考え合わせれば、

? 「自分の力で考える」とはどういうことか、ホントに出来るのか?

それにしても、なぜ自分の力で考えるべきなのか?
「自分の力で考える」ことを否定する人は少ないかも知れませんが・・・。

タイトル当然のことながら
記事No2842
投稿日: 2006/12/22(Fri) 07:38:01
投稿者takeo
カントが「自分の力で考えなきゃだめだ」と考えた時代の問題状況と我々が
直面している状況は異なっていますから、
「カントがそういったから」とか、「カントはこう提言しているから」、
我々はこうしなくちゃ、ということにはなりません。

カントの時代の「自力思考」を現代・我々の問題状況に応用しようとすれば、
状況は大きく違いますからまんまというわけにはいきません。
このあたりを十分吟味することは、当スレッドの目標の一つです。

日頃「哲学」に縁のない我々ですが、まずは、カントさんの提唱するところを
聞いてみましょう。
目的は「自力思考能力の開発」です。
おつきあいいただくとホントに能力がアップしたりして(笑。

タイトル◇未成年の利点
記事No2843
投稿日: 2006/12/22(Fri) 08:07:07
投稿者takeo
未成年、すなわち、他人の指示を仰がなければ自分の「考える力」を使うことが出来ない、
という状態に人はなぜとどまるのか。
それはそうすることに利点があるからだ、とカントは言います。

〈以下引用〉

○ほとんどの人間は、自然においてすでに成人に達していて、他人の指導を求める
年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っている。
また他方ではあつかましくも他人の後見者と僭称したがる人々も後を絶たない。

○その原因は人間の怠慢と臆病にある。
というのも、未成年の状態にとどまっているのは、何とも楽なことだからだ。
私は自分の理性(考える力)を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる
代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。
そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。
お金さえ払えば、考える必要など無い。考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けて
くれるからだ。
そしてすべての女性を含む多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を
踏み出すことは困難で、きわめて危険なことだと考えている。

○しかしそれは後見人を気取る人々、何ともご親切なことに他人を監督するという
仕事を引き受けた人々がまさに目指していることなのだ。
後見人とやらは、飼っている家畜を愚か者にする。そして家畜たちを歩行器のうちに
とじこめておき、この穏やかな家畜たちが外に出ることなど考えもしないように、
細心に配慮しておく。
そして家畜がひとりりでに外に出ようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ。

○ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。
歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかも知れないが、その後はひとりで
歩けるようになるものだ。
ところが他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人はくなって、
その後は自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。

〈引用終わり〉

さて、ここには「未成年者の利点」という見出しが付けられています。
(言い忘れましたが、◇付きの見出しは、訳者・中山さんのご親切、です。
ついでに、各段落の○はtakeoのご親切(笑 )

読んでみますと、未成年の利点・つまり〈自分で考えない・他人の指示に従って
行動することの利点〉はあまり論じられていません。
ここで言われているのは、何故人は自分の力で物事を考えようとしないのか、
その原因は「人間の怠慢と臆病にある」ということです。

怠慢:「未成年の状態にとどまっているのは、何とも楽なことだからだ」
「自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、
自分で食事を節制する代わりに医者に食事療法を処方してもらう。そうすれば
自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば考える必要などない。
考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれるからだ」
ということですね。
〈考えるのは面倒であり、考えない=未成年でいる、のは楽だ〉ということが
未成年の〈利点〉とされています。

臆病:「多くの人々は、未成年の状態から抜け出すための一歩を踏み出すことは
困難できわめて危険なことだと考えるようになっている」
「ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。・・・。
ところが他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、
そのあとは自分で歩く試みすらやめてしまうのだ」

ということでここに書かれているのは、「未成年の状態を続けることの利点」というより、
人々は何故未成年という状態にとどまっているのか、ということのようにも思われます。
「利点」としては、「その方が楽だ」ということしか書かれていません。
「怖い」というのは「利点」では無いでしょう。

〈利点〉については、あらためて考えてみることにして、ここでは続いて、
見出し・「未成年から抜け出せない理由」を読んでみたいと思います。

タイトル◇未成年状態から抜け出せない理由
記事No2846
投稿日: 2006/12/23(Sat) 12:51:04
投稿者takeo
新しく見出しがつけられています。
〈引用〉
○だからどんな人にとっても、未成年の状態がまるで生まれつきのものであるかのように
なっていて、ここから抜け出すのが、きわめて困難になっているのである。

○この未成年状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。

○それに人々は、理性を使う訓練すら、受けていない。

○そして人々を常にこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。

○これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも
誤用させるために)用意された仕掛けであり、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。

○誰かがこの足かせを投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れて
いないので、ごく小さな溝を跳び越すにも、足がふらついてしまうだろう。

○だから自分の精神をみずから鍛えて、未成年状態から抜け出すことに成功し、
しっかりと歩むことの出来た人は、ごくわずかなのである。

(引用終わり)

二つのことを指摘しておきたいと思います。

第一に、「未成年状態」とは何か、もう少し考えておかないと、「利点」も
「抜け出せない理由」もこれだけでは不十分です。

第二に、この本でカントさんが述べていることは、あくまでも彼自身が生きていた
時代の「問題情況」への提言として書かれたものである、ということ。

「自分の頭で考える」というスローガンは昔も今も変わりませんが、今と昔では
問題情況が大違い、カントさんの提言を現在にも通じるものであり、この本は現代に
おいて未成年状態から抜け出すための方法が提言されている、
と考えたらとんでもないことです。
カントさんはカントさんが生きていた時代における問題情況があり、われわれには
今という時代に生きている上での問題情況があるわけで、まずその違いを理解しないと
「自分の頭で考える」ことになりません。

タイトル先取りですが・カントさん的問題情況
記事No2847
投稿日: 2006/12/23(Sat) 13:02:45
投稿者takeo
カントさんが活躍したのは、「啓蒙」が大きな社会的・思想的課題だった時代です。
科学的・合理的な考え方が広がり、これまでのキリスト教的・専制政治的な社会の
仕組み、ものの見方・考え方と衝突した時代です。

カントさん的「自分のちからで考える」とは、キリスト教的あるいは教会が宣布する
「ものの見方・考え方」「問題解決法」から抜けだす、という課題への解答である、
と少なくともこの論文の字面からはみえます。
実際の対象は「専制君主制」だったわけですが、諸般の事情でそうはいえませんでした。

「自力思考」が提唱されるのは社会の転換期、これまで主流であった、「ものの見方・
考え方」が通用しなくなっている、というか、それを続けていたのでは起きている
問題を解決することができない、という情況の真っ最中だということが多い、
ということがあるかも知れません。
もっとも、転換期には必ず「自力思考」が唱えられるとか、「自力思考」が時代を
変えていく、と決まっているわけでもない。
ファシズムや共産主義とかありましたからね。

いうまでもなく、われわれに「自力思考」が必要なのは、カントさん的情況への解
としてではなく、あるいはカントさんの当時の解を鵜呑みにしているからではなくて、
われわれが直面している情況への「解」として、なのでここのところ、よろしく、
です。

タイトル二つの◇のまとめ
記事No2848
投稿日: 2006/12/23(Sat) 16:43:35
投稿者takeo
ここでカントがいっていることは、

1.人は何故「未成年の状態」にとどまっているか? それは、

@その方が楽だから
A変わるのが怖いから
という二つの理由があるから、ということです。
この二つを少し突っ込んで考えてみましょう。

まず、「その方が楽だから」という理由について。
>・・・自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば
考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれるからだ」
ということですね。

さて、人は、いつでも・どこでも・なんの問題についても、必ず「自分であれこれ
考える必要」があるわけではありません。
第一、そんなことは不可能です。

カントは、「人々が未成年から抜け出せない理由」として

>○この未成年状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。
>○それに人々は、理性を使う訓練すら、受けていない。
>○そして人々を常にこうした未成年の状態においておくために、さまざまな法規や決まり事が設けられている。
>○これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも誤用させるために)用意された仕掛けであり、人間が自分の足で歩くのを妨げる足かせなのだ。

といっていますが、ここで問題にしたいのは「さまざまな法規や決まり事」ということ。
カントはこれらを「人々を常にこうした未成年の状態においておくために」設けられている、
と断言していますが、果たしてそうでしょうか?
たとえそうだとしても、それがすべてでしょうか?

たとえば。
「法規や決まり事」あるいは自分の力で考えたのではない知識、などが無かったとしたら、
われわれは確かに何ごとに限らず、「自分の頭で考える」以外にありません。
しかし、それは果たしてそんなに必要なことでしょうか?

第一、ホントにそう言うことができるものでしょうか?
われわれは、生きて・生活している日々において、自分では数え上げられないほどの
「法規や決まり事」「自分の頭で考えたものではない知識」などを利用しています。
それらを「使うな・必要なことは自分で考えよ」といわれてもそれはムリ。
「抜け出せない」といわれていますが、
@抜け出す必要が感じられない
A中には抜け出そうとするとたちまち生活に支障を来してしまう
ような法規や決まり事、
世間の常識といったものがあります。

これらのなかには「先入観」などと呼ばれる社会の通念なども含まれることでしょう。
先入観は「あってはならない」ものと見られることが多いのですが、何をおっしゃる・
われわれは先入観抜きでは何一つ見ることも考えることもできません。
このことには後ほど立ち返りたいと思います。

次に「変わるのが怖いから」という理由について。

慣れ親しんでいるものの見方考え方〜行動をやめて、新しく自分で考えた・あるいは
採用した方法で歩き始めることは、結果の予測が難しく、「怖い」という側面が確かに
あると思います。

効能効果も定かではない「自分の頭で考える」よりは慣れ親しんでいる・結果の予測が
経験上成り立つように思える、これまでのものの見方・考え方を採用し続ける、
ということもありそうです。

しかし、それだけが「未成年」状態にとどまっている理由ではなくて、むしろ積極的に
「未成年状態でいてもかまわない」「未成年状態にある、ということが直接の原因で
困った事態が起こるとは考えられない」という判断があれば、どんなに
「未成年状態から脱却せよ」というスローガンが叫ばれても従う人ばかりとは
限らないのではないか?
(これも大事なことですから後ほど詳しく考えることにします。)

というような「あり得る情況」には眼もくれず、「社会一般に流布している
「法規や決まり事」に頼らず、自分自身で考える」ということが正しいにも関わらず、
法規や決まり事に頼っている人々は、「自分のやるべきことを理解していないバカである」
「未開人である」といっているのと同じでしょう。

そうすると、啓蒙=「自分の力で考えることの提唱」が、「情報の寡少な一般人に
必要な知識を与え、知的水準を高めること」という辞書に載っている啓蒙になってしまいます。

これも大事なことですから後でもう一度考えたいと思います。

ここでは「未成年という状態から抜け出す」ことは、いわば、自明のこと、当然のこととして、
論証抜きで議論の前提にされていることを確認しておきましょう。

カントは、「未成年という状態」から抜け出すことが重要だ、抜け出すことができれば
それでOKと考えていたようですが、果たしてどうだったでしょうか。
一口に先入観といいますが、それは、
@それ無しでは物を見たり考えたりすることができない
Aそれがないと社会生活に支障を来しかねない
Bあっても無くても別にかまわない
Cあるとこれから先の生活の妨げになりかねない
などに区分することができます。

この論文が問題にしているのは、CやBだと思いますが、またもや問題がありまして、
われわれの先入観を「必要」・「不要」・「障碍」と判断する基準は何かだろうか?
という疑問も浮かびますね。


先に進みましょう。
カントは、「未成年状態」から抜け出さなければならない、と考えていましたが、
検討してみたとおり、「未成年状態」の「マイナス」の説明は不十分です。
が、ここではこれ以上そのことは追求しません。

さて、カントは「未成年状態から抜け出す」ためには何が必要と考えていたのか。

このあたりを考えてみるのがこれからの作業です。

タイトル◇公衆の啓蒙 (1)
記事No2849
投稿日: 2006/12/23(Sat) 17:07:30
投稿者takeo
「未成年状態」から抜け出すためには何が必要か? いよいよ本論です。これまで、
@啓蒙とは、人間がみずから招いた「未成年の状態から抜け出すこと」である。
「未成年とは、他人の指示を仰がなければ自分の「考える力」を使えない状態」にあることである。

A人々が「未成年」という状態から抜け出せないのは、1.その状態が楽だから、2.その状態から抜け出すのが恐ろしいから、である。

とカントはいっているわけで、ここからいよいよ、「未成年状態」から抜け出す、いわば「身も心も大人になる」ための取り組みが説かれています。

(引用スタート)
○このように個人が独力で歩み始めるのはきわめて困難なことだが、公衆がみずからを啓蒙することは可能なのである。

○そして自由を与えさえすれば、公衆が未成年状態から抜け出すのはほとんど避けられないことなのである。

○というのも、公衆のうちには常に自分で考えようとする人がわずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである。このような人々は、みずからの力で未成年状態のくびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めていき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を広めていくのだ。

(引用終わり)

未成年状態から抜け出すことが「自分で考える」「啓蒙」ですが、
「個人が個人的な努力で脱出するのは難しいが、公衆がみずからを啓蒙するのは可能なのである。」

何故ならば・・・・。
@公衆のうちには常に自分で考えることをする人がわずかながらいる
A後見人を自称する人たちの中にもいる このような人々が
Bみずからの力で未成年状態のくびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めていき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を広めていくのだ。

ということで、個人が独力で未成年状態から抜け出すのは難しいが「公衆」というあり方では、啓蒙が拡がっていく、とカントはいっています。

「公衆」とはどのような状態か?

タイトル啓蒙を実現するには
記事No2850
投稿日: 2006/12/28(Thu) 14:52:49
投稿者takeo
> 「個人が個人的な努力で脱出するのは難しいが、公衆がみずからを啓蒙するのは可能なのである。」

その方法は、

> @公衆のうちには常に自分で考えることをする人がわずかながらいる
> A後見人を自称する人たちの中にもいる このような人々が
> Bみずからの力で未成年状態のくびき〉を投げ捨てて、だれにでもみずから考えるという使命と固有の価値があるという信念を広めていき、理性をもってこの信念に敬意を払う精神を広めていくのだ。
ということですね。
つまり、@及びAの人々が「啓蒙」についての信念(だれでもみずから考えるという使命と固有の価値がある、という)を広め、さらに「理性を持ってこの信念に敬意を払う精神を広めていく」
というわけです。

では、この作業はどのように取り組まれるのかといいますと・・・

タイトルRe: 啓蒙を実現するには
記事No2857
投稿日: 2006/12/29(Fri) 18:28:05
投稿者takeo
> では、この作業はどのように取り組まれるのかといいますと・・・

すぐ下のレスを見てください。

カントは、何故啓蒙が必要か、ということは論じていません。
「自分で考える」ことは文句無しに実現すべき当為であると考えられているのでしょう。
当時としてはそういう趨勢だったのでしょうが、現代のわれわれにはこういうポジションは許されないでしょうね。

「騙されて何が悪い」とか言う人もいそうじゃないですか。

現代において「自力思考」は何故必要か?
あらためてその必要性を構築しないと、学者・知識人の立つ瀬は無いと思います。
特に、「公的言論」に何ごとかを期待するのはムリですから、ひょっとしたらここは「私利私欲に立脚する自力思考」の出番かも知れません。

タイトル◇理性の公的な利用と私的な利用 (1)
記事No2851
投稿日: 2006/12/28(Thu) 15:12:06
投稿者takeo
啓蒙を広めていくのは、
>公衆のうちには常に自分で考えようとする人がわずかながらいるし、後見人を自称する人々のうちにも、こうした人がいるからである
という人たちです。

では、こうした人々はどのような方法で公衆に「自分で考える」というありかたを広めていくのか?

(引用スタート)
・・・公衆を啓蒙するには、自由がありさえすればよいのだ。しかも自由のうちでもっとも無害な自由、すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由さえあればよいのだ。
(しかし、実際の情況はといえば)
・・・われわれはあらゆる場所で、議論するなと叫ぶ声を耳にする。将校は「議論するな、訓練を受けよ」と叫ぶ。税務局の役人は「議論するな、納税せよ」と叫ぶ。牧師は「議論するな、信ぜよ」と叫ぶのである。
(・・・・)
こうしてどこでも自由は制約されている。
しかし、啓蒙を妨げているのは、どのような制約であろうか。
そしてどのような制約があれば、啓蒙を妨げることなく、むしろ促進することができるのだろうか。
この問にはこう答えよう。
人間の理性の公的な利用は常に自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。
これに対して理性の私的な利用はきわめてきびしく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展が特に妨げられるわけではない。
(引用終わり)

いよいよカントの啓蒙すなわち、「自分で考える」ことを普及させていくという現実の課題への取り組みが提唱されます。

啓蒙を広めるために為すべきこと、それは人々に
「すなわち自分の理性をあらゆるところで公的に使用する自由」があればよい、としています。

ここで問題は「自分の理性を公的に使用する」ということ。

タイトル理性の公的な利用
記事No2852
投稿日: 2006/12/28(Thu) 15:28:27
投稿者takeo
> ここで問題は「自分の理性を公的に使用する」ということ。

(引用スタート)
さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。

そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。
公的な利害が関わる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。
この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。

しかし、こうした喜久夫に所属する人でも、みずからを全公共体の一員と見なす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そして本来の意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。
そのことによって、この人が受動的に振る舞うように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。

(引用終わり)

ここにカントの時代の啓蒙の位置がはっきり現れています。

早い話。
カントさんは、自分たちの考えが世間に広まっていけば、「啓蒙」は達成される、と考えたわけです。そのために何が必要かと言えば、「公的言論の自由」ですね。

「公的」とは何か?
カントの「公的」は通常の意味での公的とは大きく異なります。

タイトル「公的」とは
記事No2855
投稿日: 2006/12/29(Fri) 00:26:09
投稿者takeo
> さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。
> しかし、こうした機構に所属する人でも、みずからを全公共体の一員と見なす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そして本来の意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。

カントにとって「公的」とは、全公共体の一員、学者としての資格において文章を書き、公衆に語りかけること、でした。
ここで「学者」であることとは、「私的な立場」にとらわれることなく、「自分で考え」・議論を行う「公共体」に所属していることを意味しています。

公共体とは学者の共同体のことです。
これはヨーロッパに特有の「国境を越えた恒常的な交流」のことでしょう。

> カントさんは、自分たちの考えが世間に広まっていけば、「啓蒙」は達成される、と考えたわけです。そのために何が必要かと言えば、「公的言論の自由」ですね。


学者たちに自由な言論が保証されれば、それを媒介として啓蒙が実現する、と考えられています。
カントの時代、「自分で考える」ことを実現するにはそのことが実現しなければならないという主張を含む言論の自由が実現すればよい、と考えたわけです。

さて、言論の自由が行き渡っている現代の私たちにとって、「学者共同体における言論の自由」が保証されれば、啓蒙が実現する、という状況が生まれるわけではない、ということはよくわかっています。

ここにカントの問題状況と我々の状況の違いがあるわけです。

カントさんは、人々が「自分で考える」ようになるには、学者の共同体において自由な議論が行われることが必要だ、そうすればそこで行われる議論への参加・学習を通じて人々は「自分で考える」ようになる、といっています。

カントの時代には、「言論の自由」が厳しく制約されていましたから、この制約さえはずすことが出来れば、ということだったのだと思いますが・・・。

ここで疑問を挙げておきますと、
人々が未成年の状態にとどまっているのは、「怠慢と臆病」が原因であると指摘していますが、この原因は、公的言論に接することで克服できるのか、なぜそういえるのか?

タイトルあり得なくね?
記事No2856
投稿日: 2006/12/29(Fri) 18:20:28
投稿者takeo
> ここで疑問を挙げておきますと、
> 人々が未成年の状態にとどまっているのは、「怠慢と臆病」が原因であると指摘していますが、この原因は、公的言論に接することで克服できるのか、なぜそういえるのか?

「怠慢と臆病」が原因で自力思考に踏み切れない、という状況にある人たちが、公的言論に接することで怠慢と臆病を克服、自分で考えることができるようになる、とカントは想定しているのですが、どうしてそんなことが言える?

また、たとえ首尾よく克服できたとして。
「自分で考える」とは、何をどう考えることなのか?
という疑問が残るのであります。
結局、このあたりがおろそかだったために、「言論の自由」が確保されたにもかかわらず、ナチスは生まれるは、共産主義ははびこるは、オウム真理教も登場する・・・、ということになったわけで、カント的・言論自由が媒介する自力思考の一般的な実現は不可能だということが歴史的に明らかになっています。

カントは凄い、という人たちは、このあたりのことを踏まえて新しい「自力思考」を提案しないと、カントを継承したことにはならないのではないでしょうか。

タイトルカント的問題情況
記事No2861
投稿日: 2007/01/02(Tue) 14:31:12
投稿者takeo
> 「怠慢と臆病」が原因で自力思考に踏み切れない、という状況にある人たちが、公的言論に接することで怠慢と臆病を克服、自分で考えることができるようになる、とカントは想定しているのですが、どうしてそんなことが言える?

当時の人々は、先祖代々、教会という古くからの後見人からいただいた「ものの見方・考え方」と「銃剣の閃き」をバックに仰せ出される王様の見解を問題解決行動の枠組みにしていたわけですが、その理由の一つは他に選択肢がなかった、ということでした。

啓蒙派はここに着目、適切な「ものの見方・考え方」が選択肢として提案されれば、そもそも自分たちの利害に対立している教会や王様ご提案のものの見方・考え方は一掃されるに違いない、という予断があったのではないでしょうか。

「選択肢が無い」というのはそのとおりですが、「正しい選択肢が提案されればそちらが勝つ」というのは別の話ですが、当時の啓蒙は、そこまで思い至らなかったのではないか?
と思われる根拠と、このことに思い至らなかったために、何が起こったか、ということは後ほど書きます。

このスレッド、なんの関係があるんだ、という人もあるかも知れませんが、そのうち「問題解決能力開発」というテーマと密接になってきます。しばし、辛抱しておつきあいください。

タイトル難 問
記事No2863
投稿日: 2007/01/03(Wed) 15:27:15
投稿者takeo
>> 「怠慢と臆病」が原因で自力思考に踏み切れない、という状況にある人たちが、公的言論に接することで怠慢と臆病を克服、自分で考えることができるようになる、とカントは想定しているのですが、どうしてそんなことが言える?

第一に、「公的言論」すなわち私的利害をかっこに入れて成立するとされる「学者としての言論の場」は、本当に「私的利害」にとらわれない、「ものの見方・考え方」を実現することができるか?
あるいは、学者間の意見の相違はどのような方法で解決されるのか?
あるいは、異なる主張のなかから「正しい」意見を選択するにはどうしたらよいのか?

つまり、公的言論の「ルール」が共有されていることが必要ですが、それはだれが提出し、どういう手段で共有されるのか?

などの問題が生じます。ルールが共有されていないと、「自力思考」以外の方法を提案する学者(後見人)がでてこないとも限りません(その後の歴史ではたくさんでてきましたし、現在も相変わらず、です。)。

第二に、上の問題が解決され、公的言論がルールを共有して行われていると仮定して、そこで行われている学者・言論人の「公的言論」を見聞しているうちに、一般の民衆はどうして「自分で考える力」を身につけることができるのか?

この道筋も明らかにされていません。

先にも書いたように、人々が「自分で考える」ことを身につけることが必要なのは、日常生活において生起する諸問題の解決に取り組むにあたって、教会や王権のためにではなく、自分自身や家族のために自分の能力を使う、そのためには「自分で考える」ことが大前提である、と考えられるからです。

違った視点から考えると、「公的言論の場」で交わされる議論と、後見人が提供する「ものの見方・考え方」との間にある違いは何か?ということも当然考えてみなければならない。

いずれにせよ、学者さんたちがどんなに「自分で考える」ことについて、趣向を凝らして提案されたとしても、そられの提案が「後見人」たちが提供しているセットよりも優れている保証はありません。
「あなたにとってこっちの考え方の方が正しい」ということは、後見人だって言いますからね。
いろんな人が「あなたが採用すべき考え方」を提案するわけですが、その中からどうしたら「正しい方法」を選択することができるのか?

その「選択する方法」は「学者の言論」の自由が保障されれば、自動的に生まれてくるのか?

いろいろと疑問は尽きません。

タイトル自立思考は何故必要か
記事No2864
投稿日: 2007/01/04(Thu) 09:53:39
投稿者takeo
> つまり、公的言論の「ルール」が共有されていることが必要ですが、それはだれが提出し、どういう手段で共有されるのか?

カントさんたちの時代以降、公的言論が進んできた道は「私的・自立思考」の範となるようなものであったとは言えません。

「我こそは真に私的利害の成就を保証する」という言説が後を絶たず、それらを淘汰するメカニズムは「公的言論」の場には確立されることはありませんでした。

今日ではどう化と言いますと、ご承知のとおり、百年河清を待つという言葉がピッタリ、ですね。

カントさん的・「公的言論の自由から自立思考の普及」へというシナリオはうまく行きませんでした。
もともとの課題は、「私的領域」の問題解決において「自分で考える」という方法を獲得すること、つまり、通常の生活において起こってくる問題を「腹に一物ある後見人」の指図を受けず、「自分の利害」を基準に解決するには、自分自身で考えることが大切だ、ということからスタートしています。
「公的言論」を経由する、という方法は、私的領域での問題解決の方法を新たに確立する、という問題へのアプローチだったわけです。

この路線が破綻しているからには、われわれはもう一度「私的領域における問題解決」と自立思考の関係から考えてみることが必要です。

タイトル実は
記事No2871
投稿日: 2007/01/09(Tue) 04:02:30
投稿者takeo
> 第一に、「公的言論」すなわち私的利害をかっこに入れて成立するとされる「学者としての言論の場」は、本当に「私的利害」にとらわれない、「ものの見方・考え方」を実現することができるか?
> あるいは、学者間の意見の相違はどのような方法で解決されるのか?
> あるいは、異なる主張のなかから「正しい」意見を選択するにはどうしたらよいのか?
>
> つまり、公的言論の「ルール」が共有されていることが必要ですが、それはだれが提出し、どういう手段で共有されるのか?
>
> などの問題が生じます。ルールが共有されていないと、「自力思考」以外の方法を提案する学者(後見人)がでてこないとも限りません(その後の歴史ではたくさんでてきましたし、現在も相変わらず、です。)。

「公的言論に何を学ぶか」以下のブランチを読めば、上記の問題は氷解します。
「公的言論」の中身は、何でもよいし、共通のルールもいろいろ必要ということではありません。
「批判の自由」があればよいということであり、これは「公的言論の場・機会」が存在する、ということ自体に含まれていると思います。
「公的言論・・」ブランチを読めば、「場」に提出される言論は、何でもOKです。教会の代弁でも王によるその権利主張でもかまいません。それらに対する批判的検討の自由があればそれでよい。
言説に対する相互批判の見聞から「自分で考える」・批判的思考が身に付いてくる、というのがカントの戦略です。

> 第二に、上の問題が解決され、公的言論がルールを共有して行われていると仮定して、そこで行われている学者・言論人の「公的言論」を見聞しているうちに、一般の民衆はどうして「自分で考える力」を身につけることができるのか?
> この道筋も明らかにされていません。

この道筋は、上記ブランチで明らかにしました。
カントさんは明示していませんが、そういうことだと思います。

> 先にも書いたように、人々が「自分で考える」ことを身につけることが必要なのは、日常生活において生起する諸問題の解決に取り組むにあたって、教会や王権のためにではなく、自分自身や家族のために自分の能力を使う、そのためには「自分で考える」ことが大前提である、と考えられるからです。

カントさんの場合、実はもう少し複雑でありまして、
@人々が迷妄から脱して
A自分で考えるようになれば
B物事に批判的に対処できるようになる
C各級相互の利害調整は合理的に行われる
D恒久平和が実現する
という構想とともにある「自分で考える」だったわけです。

> 違った視点から考えると、「公的言論の場」で交わされる議論と、後見人が提供する「ものの見方・考え方」との間にある違いは何か?ということも当然考えてみなければならない。

ここは適切ではありませんね。
公的言論の場には「後見人」の言説とそうではない言説が存在する。その区分はどこにあるか、という問題はありますし、それはそれで重要ですが、ここでの問題とは異なる問題です。

> いずれにせよ、学者さんたちがどんなに「自分で考える」ことについて、趣向を凝らして提案されたとしても、そられの提案が「後見人」たちが提供しているセットよりも優れている保証はありません。
> 「あなたにとってこっちの考え方の方が正しい」ということは、後見人だって言いますからね。
> いろんな人が「あなたが採用すべき考え方」を提案するわけですが、その中からどうしたら「正しい方法」を選択することができるのか?
> その「選択する方法」は「学者の言論」の自由が保障されれば、自動的に生まれてくるのか?
> いろいろと疑問は尽きません。

「公的言論の自由」の要請は、実は「批判の自由」を確保することだったのだと分かれば、ここで取り上げている問題は氷解します。
「批判的態度」が身に付けばそれでよろしい、ということです。

タイトル理性の私的な利用
記事No2858
投稿日: 2006/12/29(Fri) 23:40:13
投稿者takeo
理性の私的な利用とは

次に理性の私的な利用について。
この論文において、公的・私的ということばは、通常とは異なった意味で使われています。

(引用スタート)
そして、理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。公的な利害が関わる多くの業務では、公務員がひたすら受動的に振る舞う仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。
 しかし、こうした機構に所属する人でも、みずからを全公共体の一員と見なす場合、すなわち学者としての資格において文章を発表し、そしてほんらいの意味で公衆に語りかける場合には、議論することが許される。そのことによって、この人が受動的に振る舞うように配置されている業務の遂行が損なわれることはないのである。
(引用終わり)

あらためて確認しておきますと、われわれにとって「自力思考」が必要なのは、まさにここでいわれている「私的」な状況においてです。
だれもが自分が直面している〈問題情況〉において「自分で考える」ことが必要になっているわけです。
このことは、この論文が書かれた時代においてもまったく同様でありまして、日常生活における問題解決にあたって、教会やその他の「後見人」の指図するところによってではなく、「自分で考える」ことが必要だ、というのがカントさんの執筆動機です。

「公的な利用」との区分は、当時の状況におけるカントさんの戦術です。

「理性の公的な利用」についていま一度。
>さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。

ここからスタートして「理性の私的利用」という生活の場においても「自分で考える」ことを普及させていく、というのがカントさんの啓蒙普及戦術です。

これはもちろん、いきなりそれぞれの生活において「自分で考える」ことを提唱すれば、たちまち教会その他の後見人の利害と衝突しますから。
論文では教会が正面となっていますが、絶対王制という暴力装置こそいっそうの強敵、その逆鱗を避けるべくカントさんはいろいろと工夫を凝らしています。
このあたりは特に本文からの引用はしませんので、興味のある人は立ち読みしましょう(笑

タイトル「私的な利用」の状況
記事No2865
投稿日: 2007/01/05(Fri) 13:18:25
投稿者takeo
> そして、理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。

そういう職責にあるものとして、職責を全うすることを通じて自分の「私的な利害」を実現しようとするわけですが、この場合、「私的利害」を実現するためには、それを表面上は抑制し、もっぱら職務=公的利害の実現に邁進することが、私的利害の確保に結果する、という仕組みになっています。
したがって、
>公的な利害が関わる多くの業務では、公務員がひたすら受動的に振る舞う仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。

ということになります。
が、二つ問題がありまして。
第一に、公務員が奉仕している「公的利害」とは、他の「公的利害」が出てくれば相対化され「私的利害」になってしまう、ということ。

第二に、上が示す「公的利害」が本当に「公的利害」を実現する最適の道であるのかどうか?、
ということ。

マジメに「私的利害」を実現する機会として「公務員」など公的利害への奉仕を選択している人には必ずつきまとう問題ですが、特に、これまでの「公的利害」を実現していく枠組みそのものがうまく機能しなくなっている時代などには大変な問題です。
「尊皇佐幕」「攘夷開国」のような時代の転換期には、「公的利害」のありかたをめぐって競争が行われたりします。

カントさんがこの論文を書いて間もなくお隣のフランスでは大革命が起こりました。ヨーロッパ中で新旧の「ものの見方・考え方」が競合していた時代です。

こういう時代には、「理性の私的な利用」も寄るべき大樹が無かったりするわけで、「自分で考える」は「理性の私的な利用」においても必要なことです。

ということで、ここでカントさんが「私的利用」について言われていることは、当時の状況における「目くらまし」を狙ったものだっったと思います。

したがって、今日において、公的機関・私的企業を問わず、組織に参加している人について、
>公的な利害が関わる多くの業務では、公務員がひたすら受動的に振る舞う仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて、公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。

ということはありません。

タイトル公的言論に何を学ぶか
記事No2866
投稿日: 2007/01/06(Sat) 21:56:44
投稿者takeo
カントさんは「自分で考える」という「あるべき思考法」を国民的レベルで普及させるためには、「私的利害」にとらわれない自由な言論が必要だと言いました。
自由な言論とは「学者」が行う言論を第一義的には意味しています。

では、学者(カント的には一般有志を含む)が自由な言論を行い、それを国民が見聞すればどうして「自分で考える」習慣が普及すると考えられたのでしょうか?
そんな、人の討論を聞いたからといって、聞いた人が「自分で考える」力がつくとは思えない・・・?
第一、当時もいまも「公的言論」に参加者が共有するルールがあるわけでもないし、誰もが「良心的」というか「客観性」を尊重することをモットーにしているとも限りません。
「公的」とは「発言の自由」ということであり、発言の内容について方向付けることはありません。
そういう言ってみれば「百花斉放」的発言の場があり、議論に参加したり傍聴したり出来る条件があれば(カントが求めているのはそういうことですね)、「自分で考える」という思考スタイルを獲得することが出来る?
どうして? なぜ?
あれもこれもいろいろ聞いたからといって「自分で考える」力が付くとは思えない・・・・?

ところがさにあらず、これをやると「自分で考える」が出来るようになるのです。

タイトル公的言論と自力思考
記事No2867
投稿日: 2007/01/08(Mon) 12:30:23
投稿者takeo
> あれもこれもいろいろ聞いたからといって「自分で考える」力が付くとは思えない・・・・?

言論の自由とは、言論批判の自由、でもあります。
むしろこちらの方がより重要かも知れません。
「言論」はそれなりに構えないと出来ないことかも知れませんが、「批判」は「言論」の至らなさを指摘するだけで成り立ちますからたとえば、「王様は裸だ」と指摘するだけでよい。

ということを前口上として。
カントがいう「理性の公的な利用」が行われる場とは「学者」が「意見」を交わす場所・機会であり、かつ、その利用は公開されていなければならない。
そうしないと目的である「国民の啓蒙」に達しません。

ここで行われる公的言論とは、ただ自分の公的意見を述べることにとどまらず、他人の意見を批判する、批判に対して反論する、という活動を含みます。
言論の場のモットーは、「相互批判を通じてよりよい立場を構築する」と言うことでしょうから、提出された言論の批判、批判に対する反批判という応酬(=議論)は当たり前ですね。

「自分で考える」という思考の慣習を修得するためには、この「理性の公的利用に基づく議論」を見聞する・これに参加する、ということがきわめて効果的です。

タイトル「批判」力
記事No2868
投稿日: 2007/01/08(Mon) 12:50:52
投稿者takeo
「公的言論の場」で行われる議論は、
@言説Aの提出
A@に対する批判
BAに対する反批判
という形で行われます。

いきなり言説Aと言説Bが平行提出されて優劣を争うというわけではありません(そういうケースもありますが)。
通常は、Aが提出され、これについて関心がある人がその言説の内容を検討し、批判すべき点を発見し、指摘する、と言うことから議論がスタートします。
「批判すべき点」は、必ずしもA以外の立場からでないと指摘することが出来ないことはありません。
Aと言う言説の中に明らかな誤りがあれば、これを指摘するのに別の理論を持っていなければならないと言うことはないのです。

※したがって「批判するなら対案を出せ」というのは明らかな間違い。対案が有ろうと無かろうと、内部におかしなところが含まれているものは「おかしい」と批判されることになります。

「おかしい」のは、
第一に、言説の内部にお互いに矛盾することが含まれている場合。
第二に、言説の内容はつじつまが合っているが、関係する他の「妥当と思われる」情報と食い違っている場合。
などが考えられます。
批判というのは、言説のこういう個所を発見し、発言者に問いただす作業です。

もうお気づきのように、「批判」とは「自分で考える」作業です。
提出された言説を自分自身で批判する作業を通じてその言説に対する態度を決める、これが「自分で考える」ということの基本です。
このことはとても大事なことですから、きちんと理解していただきたい(理解済みかも知れませんが)。

提出される言説は「だれが考えたのか」は問われません。
「自分が考えたこと」でもOKですが、これを「批判的に」検討することが「自分で考える」仕事。
と言うように考えましょう。

「自分で考える」とは物事・言説に対して批判的な態度をとる、ということです。もちろん、「批判的」とは何でも反対という意味での批判ではありません。既にお分かりのとおり。
批判とは言説の内容を検討する、と言うことです。

タイトル理論的格闘に学ぶこと
記事No2869
投稿日: 2007/01/08(Mon) 13:07:00
投稿者takeo
> 「公的言論の場」で行われる議論は、
> @言説Aの提出
> A@に対する批判
> BAに対する反批判
> という形で行われます。

まず提出者は、自分の言説Aを提出するにあたって
@言説の内部に批判者から指摘されるような欠陥が無いこと
A言説が直接ふれていない、外部の「確実と評価されている事実」などとの齟齬が無いこと
を念頭に作業を行い、点検をしているはずです。

この提出を受けて批判者は、
@及びAについて「指摘」することは無いか、を徹底して検討します(批判的作業)。
その結果、問題点があればその個所を指摘しその理由を明らかにします。
これが「批判」です。

批判に対して言説の提起者は、
@批判は当たっているか、批判的に検討し、その結果
A批判が妥当であれば受け容れる
B批判があたっていないとすればその理由を明らかにして拒絶する

これに対して、批判者は・・・・

と言うように展開されるのが「理性の公的利用」です。

このやり取りが公開されていれば、関心のある人はこのやり取りの一部始終を
フォローすることで、「批判」と「反批判」の要領、議論の進め方を修得する
ことが出来る。

「自分で考える」はまず「批判のしかた」からスタートしなければ本物になりません。
今までの説はどうも気に入らない、他にいい説はないか、と探していたらちょうど
よい説に出会うことが出来た、といのは、自力思考=自分で考えた結果だ、
とはならないわけです。
カントさん的には、「後見人」が代わっただけかも知れませんからね。

自分で考えるとは、まず、「言説」を批判出来ること。
よろしいですね。

※以下余談※
カントさんが「自分で考える」ことを普及する戦略として「理性の公的使用」
の自由を要望したのは、実はこういうことが考えられていたわけですが、
教会も王権もそのあたりは百も承知で対策を講じたのではないでしょうか。
また、この戦略そのものに大きな問題が内蔵されており、そのこともあって
啓蒙は未だに達成されていないわけです。
カントさんの論文にアクチュアリティを感じる人たちは当然、このあたりに
思いをいたし、改善策を考えていくべきだと思う次第ですが、これは余談っす。

さて、このあたりで皆さんのご意見をいただくと先に進むのに勇気百倍なのですが・・・(笑。

タイトルありがちな誤解
記事No2872
投稿日: 2007/01/15(Mon) 09:30:32
投稿者takeo
この本でカントさんがおっしゃっているのは、「自分で考えなさい」ということではありません。
というか、カントさんは「自分で考える」ことを提唱するためにこの本を書いたのではない。
ここのところを誤解して「カントは自分で考えよ」と言っている、現代のわれわれも
傾聴すべき提案だ」などというのはトンチンカンです。

論文のなかで本人はただの一度も「自分で考えよ」という提案はしておりません。
カントは「後見人」を目指しているわけではありませんから。

誤解の端緒は、この論文が、何を目的に・だれに向けて書かれたものか、というところの
読み違えにある。
この論文でカントが行おうとしたことは、王制下の関係各方面に「啓蒙とは何か」
「どのような方法で実現するか」を説明し、「政治的に危険な思想ではない」ことを
説明すること。説明し、啓蒙普及の実現を目指すことにありました。
だから標題が「啓蒙とは何か」。
「啓蒙の方法」でも「自修する啓蒙」でもないことに着目しましょう。

したがって、この論文にカントの「自分で考える」意義・修得のネライが明示されて
いるなどと考えるのはとんでもない誤解です。
カントさんを師と仰ぐ人たちは、この論文について「アクチュアリティがある」とか
「生きるために読む」などとトンチンカンにありがたがる前に、カントさんが
直面していた問題情況に思いをはせ・「紙背」を読むべきだと思いますけど。

現代においてわれわれが直面している課題とは、「啓蒙とは何か」ではなく、
「自分の生活において啓蒙=“自分で考える”を実践する」ことですからね。
この点、カントさんがこの論文で提案し実践しようとしている方法は、その後の
経緯において失敗が明らかになっています。
“「公的言論」の振興を通じて啓蒙を実現する”というカントさんの戦略は、
二つの理由で明白に失敗でした。

その一 体制側に当論文の魂胆を見破られ、言論活動が禁止された。
その二 後代、公的言論の自由は達成されたが、啓蒙が広範に実現することはなかった。

現代のアクチュアルな課題とは、この挫折を踏まえ、啓蒙が本来駆使されるべき
私的領域における啓蒙を実践すること、です。

というように考えれば当サイトが提唱する“仮説・試行法”は、みずからの実践で
みずからの蒙を開く、啓蒙実践の法の一つではないでしょうか(笑。

タイトル本書に学ぶ自力思考
記事No2918
投稿日: 2007/04/30(Mon) 19:17:19
投稿者takeo
最近、「カント 啓蒙とは何か 解説」をキーワードに検索、当記事に
たどり着いた人がありまして、いろいろ読んで行かれたようです。
ニーズがあるならもう少し続けてみましょうか(笑。

「啓蒙とは何か」は、「啓蒙の勧め」とか「啓蒙はこうやる」とかのいわゆる
よにいう啓蒙書ではありません。

「啓蒙ってそんなに警戒しなくても良いんだから」と官憲にアピールするために
書かれたものではないか、というのが私の解釈であり、ま、ほぼ間違い
ないでしょう。

そもそもカントは公的言論すなわち私的利害を含まない言論を普及させる
ことがどうして「啓蒙」実現への道であると考えたのでしょうか?

「啓蒙せよ」とか「啓蒙はこうする」とかではなく、「公的言論」を普及する
ことがどうして「啓蒙」の促進につながるのか?

まずはこの問題を解かないと、カント的啓蒙にいくらしびれても、現代の
われわれの問題状況における「啓蒙」には何の役にも立ちません。
それとも『啓蒙とは何か』を読んでなにか自分の「啓蒙」に役に立ちましたか?
役に立ったとすればそれは、「後見人」的貢献であり、もちろん、カントはこの
論文を書くことで「後見人」を志したわけでありませんからね。

では、カントは、「啓蒙」=自分の力で考えるというあるべき思考スタイルを
実現するうえで「公的言論」の自由化が効果があると考えたのでしょうか?

そしてカントの戦略は見事成功したのでしょうか?
というか、今日ただいま、「自力思考」のスレッドを立てなければならない
という状況が、如実にカントさんの思惑が外れたことを物語っています。
カントの戦略、どこが間違っていたのか?

>“「公的言論」の振興を通じて啓蒙を実現する”というカントさんの戦略は、
>二つの理由で明白に失敗でした。

ではみていきましょう。

タイトルカントの挫折@
記事No2924
投稿日: 2007/05/07(Mon) 12:26:06
投稿者takeo
その一

カントの戦略は官憲のたやすく看破するところとなり、確か本書は発禁処分を
喰らいました。さすが王権はその根本を覆そうとする企てには敏感です。

ちなみに「啓蒙」とは「自分で考えなさい」その方が自分のためですよ、という
お説教ではありません。
(といいつつ、お説教に終始しているのが俗流啓蒙主義者でありまいて、その点、
訳者も同じく「啓蒙とは先入観抜きで考えること」などと出来もしないことを
宣伝しています。それはともかく。

カントさん挫折の理由その一は、発禁処分を受けたことではありません。

それは、「公共言論」を啓蒙の機会として活用する人がいなかった、ということ、
あるいはいたとしてもきわめて限られていただろう、ということです。

啓蒙の目的は、公共言論に参加することではなく、王権・教権に思考レベルまで
束縛されている日常生活における自力思考を実現することでした。
公共言論への参加はそのための手段です。

この手段への参加が限られていたことが、挫折の第一の理由ですね。

タイトルカントの挫折A
記事No2925
投稿日: 2007/05/07(Mon) 12:41:13
投稿者takeo
続いて第二の理由

これはより基本的な失敗でありまして、公共言論において批判的態度を修得すれば
果たして啓蒙が実現するだろうか、ということ。

公共言論の自由を啓蒙の手段として見る場合、検討しなければいけないことが
二つありまして、一つは、人々が参加するだろうか、ということと
もう一つは、参加すればほんとうに啓蒙が達成されるのか、ということ。

「公共言論」の場は、個々人の利害とは無関係に成立する場とされています。
この条件がほんとうに成立するかどうかは、また新しい問題をもたらしますが、
ここではパスします。

ここで取りあげるのは、公共言論において批判的な思考を習得すれば、
即・それは日常生活の思考に活用されるものだろうか ということです。

これについては、あらためて考えてみるまでもなく、「言論の自由」が
はびこっている(笑 当代を考えてみれば一目瞭然、言論の自由が確保された
からといって啓蒙が実現するということは期待できません。

カントさん、残念でした。

言論の自由〜啓蒙の実現はどうして達成されないのか?
考えて見ましょう。

繰り返しておきますが、カントの課題は、大衆が自力思考を確立することであり、
カントはその方法として、公共言論を理解する能力を習得することや、
後見人の言説を「先入観」として退け、先入観を排除して自分で考える、
ことなどを提唱しているわけではありません。
このあたり、果たして専門家さんたちはどう理解しておられるのか、
知っている人はどうぞ。

タイトル余 談
記事No2926
投稿日: 2007/05/07(Mon) 13:12:06
投稿者takeo
公共言論と啓蒙について。

ヨーロッパで国民意識が醸成される時期に「啓蒙」が課題になってわけですが、
この時期、公共言論は従来のラテン語からそれぞれの自国語へと論陣を移行
しました。真剣に啓蒙に取り組もうとすれば必至ですね。

ひるがえって我が国の論壇を見ますと、
舶来啓蒙理論を故意に難解な用語&レトリックで扮装、身すぎ世すぎを確保する
ため素人に対して参入障壁を意図している。
と、これは長谷川先生のお説です。
『新しいヘーゲル』14ページ付近。
ほんとうかどうか知りませんけど(笑 

とここで、お昼休みのおしまい。